お前の妻は俺の物精神の男たち

人妻童貞が偽装された人妻でシコりつづけたほうがいい理由

「人妻モノ」と呼ばれるアダルトビデオに出てくる女優は、「人妻」を演じるからといって、なにも、実生活において「人妻」である必要はありません。むしろ、AV女優と呼ばれる女性たちの多くは「夫がいる女性」ではなく独身者です。

つまり、「人妻モノ」と呼ばれるアダルトビデオに「人妻」として登場してくるのは、ほとんどの場合が「偽装された人妻」「演じられた人妻」ということになるでしょう。

当然ながら、これは、なにもアダルトビデオに限った話ではありません。言うまでもなく、映画やテレビドラマなどで、実生活においては独身者である女性が、「演技」の場において、「作品」のなかでのみ「人妻」になる、ということは、往々にしてよくあることです。

偽装された人妻を好む人妻童貞たち

偽装された人妻を好む人妻童貞たち

「人妻好き」と呼ばれる男性は、生身の肉体と人格を持った「夫がいる女性」である「人妻」以外ばかりではなく、これらの「偽装された人妻」「演じられた人妻」のことも好む男性であると私は考えています。男性によっては、実際の「夫がいる女性」以上に、フィクションとしての「人妻」を好む男性もいるでしょう。

ちなみに、「人妻好き」の男性にアンケートをとり、《生身の肉体と人格を持った「夫がいる女性」と「不倫」の関係にまで進み、他人の妻を「寝取る」という行為に到達する男性、社会的なリスクなどを犯してでも実際に「不倫」を遂行してみせる男性》と、《「偽装された人妻」や「演じられた人妻」を好きなだけであって生身の肉体と人格を持った「夫がいる女性」と「不倫」の関係を一度も築いたことがない人妻好きの男性》の総数を比べてみる機会がもしあったならば、実は後者のような「人妻好き」のほうが数が多いのだ、というような結果が出るのではないか、と私はひそかに考えております。

私は、この後者のような「人妻好き」の男性のことを、ひとまず「人妻童貞」と呼ぶことにして、実際に「不倫」「姦通(なんて古臭い言葉でしょう!)」を経験したことがある男性と峻別していきたいと考えております。

人妻童貞は童貞がセックスを学ぶように人妻を学ぶ

この「人妻童貞」は、生身の肉体を持った「夫がいる女性」と実際に関係を持ったことはないものの、「人妻」という「社会的に禁じられた対象」とのセックスを強くのぞむ気持ちだけは非常に強く、「偽装された人妻」「演じられた人妻」「フィクションとして語られた人妻」などを通してしか「人妻」というものを知らない状態で、「人妻」をこよなく愛する、「人妻」でしか興奮しない、「人妻」のことなら詳しい、というような態度をとることになります。

「性行為」はしたことがないが、連日連夜熱心に続けられたアダルトビデオの鑑賞などによる「独学」によって、実際にしたことがないセックスについてやたらと詳しくなる、という「童貞」が一定数いますが(実際に性行為に及ぶにあたって「アダルトビデオ」で学んできた誤った知識やテクニックを披露しようとして、女性から嫌がられるタイプですね。こういった誤った実践は童貞喪失後も継続されますが……)、私が「人妻童貞」として呼ぶことになる男性の一群は、こういった「童貞」のネクストステージ、というか、ほぼ同質のものであると考えることができるでしょう。

不倫男性と人妻童貞の明確な違い

「不倫男性」と、「人妻童貞」のことを考えていますと、あまりに当たり前のことではありますが、ある「明確な違い」を見出すことができます。
その明確な違いは、「人妻」というものを、どこまで「人妻」として捉えるかという違いです。

男性が「不倫男性」になるためには、「生身の肉体と個々の人格を持つ、夫がいる女性」という存在が不可欠です。一方で、「人妻」と不倫はしたことがないが「人妻」が好きである「人妻童貞」にとって、現実世界に存在する「夫のいる女性」は、その成立条件にはなりえません。むしろ、「夫がいる女性」との実際の交流によって不倫関係に陥ろうものならば、「人妻童貞」は、その「人妻に対する童貞」を喪失することになります。

「人妻」が好きでありながら、実際の「夫がいる女性」との関係を築かなくても「人妻好き」になれる、「人妻童貞」として「人妻」というジャンルを好きになれるのは、フィクションとして流通している「偽装された人妻」「演じられた人妻」がいるからにほかなりません。

人妻風のものを人妻として認識するということ

一度でも「夫がいる女性」と関係を持つ経験を持った「不倫男性」にとって、明らかに独身女性でありながら「人妻」として振る舞う「偽装された人妻」「演じられた人妻」たちは、果たして「人妻」といえる存在でしょうか。

「不倫男性」は、それらの「人妻とされているもの」「フィクション」と知りながら、「この『人妻風のもの』は一体なんなのか」という判断をくだす必要に迫られます。

そのときくだされることになる判断は、「フィクションとしての人妻」と距離を置き(シラけたような感覚になり)「これは『人妻』ではない」と断言するか、「フィクションとしての人妻」と知りつつもあえて積極的に身を寄り添わせ「フィクションとしての人妻」を楽しみながら「実際の不倫とは違うが、現実における面倒なトラブルなどもないし、こういった『人妻風のもの』も悪くはないものだ」と受け入れるか、どちらかでしょう。

一方で、「人妻童貞」の場合は、イメージとして流通している「フィクションとしての人妻」「挿入したことがない女性器」のように実際には触れたことがない「自分が想像する限りにおいての人妻」のことしか知りません。

人妻のようなものに認識するならば人妻に根拠は不要である

実際には「夫を持つ女性」と交際したことがない「人妻童貞」でありながら、その状態で「人妻」が好きだ、「人妻」を見ると興奮する、といっている男性は、一体、「人妻」というものの何が好きで、何を持ってしてその対象を「人妻」であると認識することになるのでしょうか。

「装われた人妻」「演じられた人妻」で興奮ができるということは、「人妻」であると認識ができる要素さえ備わっていれば、「その女性には実際に夫がいる」という条件を抜きにして、「人妻(のようなもの)」に欲情できるということになります。

たとえば「結婚指輪」というものが、「実際に夫がいる」という条件を抜きにして、「人妻(のようなもの)」を構成する要素として挙げることができるでしょう。

では、「実際に夫がいるわけではない独身女性」が、薬指に「結婚指輪」をした状態で、「実は私って『結婚』してるの」「口だけの自己申告」「人妻宣言」するとします。そのとき「人妻童貞」を呼ばれる男性は、その「自己申告した独身女性」を、自分が「フィクションとしての人妻」を楽しんでいるときのように、「人妻」として認識し、「人妻好き」として興奮することができるのでしょうか。

人妻が本物であるということは重要なのか

人妻が本物であるということは重要なのか

「人妻童貞」に対する私の関心と、「人妻好き」に対する「わからなさ」は、どうやら、こういったところにあるようなのです。

「人妻モノ」と呼ばれるようなアダルトビデオに出演している独身女性が演じる「人妻(のようなもの)」、あるいは、映画、演劇、ドラマなどに出てくる独身女性が演じる「人妻(のようなもの)」「偽装された人妻」「演じられた人妻」を通して、「人妻っていいなー人妻が好きだなー人妻とセックスしたいなー」などと感じる「人妻好き」の男性にとって、その「人妻」「本物であるかどうか」ということは、どの程度に重要なことなのでしょうか。

たとえば、性風俗などに言って、独身女性の風俗嬢の薬指に「結婚指輪」をつけてもらい、「人妻らしく振る舞ってね」と頼んだ上で、性行為をするとします。それを「人妻とのセックス」として楽しんでいく。その程度のことは、「生身の肉体を持った夫がいる女性」ではない女性を「人妻(のようなもの)」として認識できる「人妻好きの男性」にとっては「余裕」なのではないでしょうか。

人妻のようなものを人妻と思い込むだけで十分なのではないか

また、こういうのはどうでしょうか。結婚指輪を装着した女性に、「夫とのツーショット写真」、あるいは、「夫と子供と自分の集合写真」などを「証拠」として見せられて「ね、わたしって『人妻』なんですよ」と言われ、なるほどこれは「人妻」に違いない、と思ってセックスをするとします。

さらに、仮定を続けていって、そのセックス中に「やっぱり『人妻』とのセックスは最高だ!『人妻』ではない女性とのセックスとは、ひと味もふた味も違うぞ!」などと感じたとしましょう。

で、そのセックス終了後に、「人妻」であることを「自己申告」した女性から「あの証拠写真が、実は捏造された夫婦写真、でっち上げの家族集合写真であり、自分は『人妻』でもなんでもない独身女なのだ」と告げられたとしたら、どうでしょうか、セックス中の「『人妻』とのセックスは最高!」などという感想は、そう感じたことの根拠を失うということになるのではないでしょうか。

このような考えによって、「人妻童貞」でありながら「人妻」が好きである、という男性にとって、「本当の人妻」などという存在は、そもそも不要なのではないか、という疑いを私は持っています。

不倫男性が引き受ける現実的なリスクについて

「人妻童貞」を喪失し、「不倫男性」になってしまい、もうかつてのような「人妻童貞」には戻れない身になった上で、「生身の肉体と個々の人格を持った夫のいる女性」という現実的な存在と関係を築くにあたって身に降り掛かってくるトラブルを知り、密会のための口裏合わせの面倒臭さにうんざりしながら、「人妻」であるからといってそのセックスが「人妻ではない女性」とするセックスとそれほど快楽の度合いが変わらないありふれたセックスでしかないという退屈さを繰り返すばかり。

「夫がいる女性」「不倫」をする醍醐味というのは、最初の性行為までの「他人のものを奪う」というプロセスにだけあるのだと思います。「奪った」あとは、数回のセックスの新鮮さはあるかもしれませんが、上記したようなトラブル、面倒臭さ、退屈さなどがつきまとうのが「人妻」との交際です。

しかし、これらをすべて引き受けた上で、「いや、それでも自分は、夫がいる女性に交渉をしかけ、その夫がいる女性と性行為に及ぶ瞬間、他人のものを奪う瞬間の反復をどうしてもやめられないのだ」と、そんなふうに言える「不倫男性」というのは、本当に「人妻」というものが好きなんだなあ、と感心させられます。

人妻童貞はリスクをおかさず気楽に人妻を楽しみ続ける

「人妻童貞」を卒業したあと、その熱意にまで到達でき、「不倫」を続けられたならば、「人妻」好きとして、なかなか立派なものです。「実際に奪ってみたら、それほど欲しくもなかった、人妻が好きではなかった」という経験をする「不倫男性」のほうが多いように感じますが。

私としては、「夫がいる女性」というのを「夫に所有された女性」と考える、その思考自体に強い抵抗があるので、「他人のものを奪う」という感覚で「夫がいる女性」のことを「所有されている《もの》」として認識する男性、また、それを前提とした「寝取り」という行為に快楽を感じる男性のことは、正直なところよくわかりません。

まあしかし、実際に「奪う」経験もなく「人妻最高!」などと言ってられる気楽さ、「人妻童貞」くらいの距離感が、なんだかんだ言ってもちょうどいいんじゃないかと思います。

「ある男性の《所有物》」としての「人妻」を、「《所有者》ではない男性」「奪いたい」と欲望する三角関係を、俯瞰して眺めながら「いいですねえ、私もいつか人妻を旦那から奪ってみたいものです」などといってシコシコ陰茎をシゴくくらいが、リスクも少なく、トラブルや面倒事に巻き込まれず、また、「不倫の現実」に幻滅させられることもないですから、ずっと「人妻」を好きでいたいなら「人妻童貞」であることに越したことはないようにも思われます。