お前の妻は俺の物精神の男たち

ジャイアニズムに毒された人妻好きのおぞましい略奪欲

「人妻」と呼ばれることになる女性に欲情する男性は、「人妻」の何にそれほど欲情をするというのでしょうか。「夫がいる女性」というだけで、「人妻以外の女性(独身女性)」と峻別されることになるこの「人妻」と名付けられた存在は、一体、何者なのでしょうか。

「人妻との性行為」は、「人妻ではない女性との性行為」よりも強い快楽がある、というような言われ方をするとき、「『夫がいる女性』になったというだけで、性行為の快楽それ自体が変化するなどということがありえるのだろうか」という疑問が生じます。

「人妻」との性行為が、もし、独身女性とする性行為に比べてより快楽的であるとするならば、「それがなぜ快楽的なのか」であるとか「本当に快楽的なのか」などを考えていかなければならないようにも思います。

人妻の魅力は肉体的な魅力にあるのではない

人妻の魅力は肉体的な魅力にあるのではない

「人妻」との性行為が仮に快楽的であるとして、その快楽の出処を考えていくならば、それは、「人妻」「肉体的な魅力」によるものではないでしょう。

「人妻」の魅力を称賛しようとする文章を読んでおりますと、「人妻」「名付けられただけでしかない存在」「肉体的な魅力」が独身女性のそれを上回っており、だから「人妻」との性行為は独身女性とする性行為以上に気持ちいいのだ、というような内容の文章を読むことが頻繁にあるのですが、このような文章は眉に唾をつけて読む必要があると思います。

結論から言ってしまうと、「肉体的な魅力」という点において、「人妻」「独身女性」を厳密にわけるものも、差をつけるものも何もありません。「結婚」という条件を満たしているだけで、その女性の「肉体的な魅力」が増すということは、はっきり言って、暴論でしかありません。

「結婚」というものは何もRPGにおけるような「装備品」「アクセサリ」ではないのですから、「結婚」をした瞬間に「肉体的な魅力」のパラメーターが上昇するなんてことはまず起こりえません。

「結婚」をして「肉体的な魅力」が増加するのであれば、「人妻」が離婚して独身女性に戻ったら、「肉体的の魅力」が、「装備品やアクセサリを外した」みたいに、衰えるというのですか。それで「再婚」したらまた「肉体的な魅力」が戻ってくるというのですか。まったくもって、こんな馬鹿らしい話はないといえます。

肉体的魅力は結婚抜きで獲得可能なものである

馬鹿らしい話について触れたついでに、さらに「当たり前に考えられること」を補足しておくと、こんなことを言うのもあまりに野暮なので悲しくなってくるほどなのですが「人妻と呼ばれる女性より肉体的な魅力を持っている独身女性」というのは、それこそ無数に存在します。

「人妻」に対して、「結婚している」という条件が整っただけで「肉体的な魅力」が強化されるなどということを主張するテキストは、これらの、数多の「人妻と呼ばれる女性より肉体的な魅力を持っている独身女性」の存在を無視することで成立しています。

それを無視した上で、「人妻の肉体的な魅力」を証明しようとするのですから、そのとき「肉体的に魅力がある理由」として提出される根拠も、すべて根も葉もない、めちゃくちゃなものになります。

たとえば、「『人妻』は独身女性に比べると性体験の数が多いため、それゆえに肉体的な魅力が独身女性より強い」というような「理由」は、そんなものははじめからない「人妻特有の肉体的魅力」を説明しようとする文章にほぼ確実に登場する「理由」です。

ですが、こんな「理由」を提示されて「なるほど、それは『人妻』の肉体が魅力的になるわけだ」などと納得するような男性がいるのだとしたら、その男性は相当の阿呆であると言わざるをえません(そして、そういう阿呆はたくさんいるという現状があります)。

「性体験の多さ」「結婚」の間には何の関係もありません。むしろ、「性体験」をより多く、そのバリエーションも豊富にしていくのであれば、「結婚」はそのセックス行脚にとっては足かせであるとさえ言えるでしょう。

肉体的魅力は性体験の回数によって得られるのではない

さらにいうと、「肉体的な魅力」「性体験の回数」の間にもそれほど因果関係があるとはいえません。「性体験が多いから肉体的に魅力がある」というのは、これは「乳首が黒い女は遊んでる」というような言説に近いものであると私には感じられます。

「性体験がゼロ」であったり「僅少」であるにも関わらず、「肉体的な魅力」が醸し出されてしまう女性というのは一定数存在します。たとえば、第二次性徴期などを終えたあとに、自分の意志とは関係のない発育をしてしまう女性などがそうです。

十代の水着グラビア写真などは、これらの「性体験の回数」とはあまり関係のないところで起こってしまった「発育」によって「肉体的な魅力」を獲得することになった女性たちの姿を捉えたものである場合がほとんどでしょう。

むろん、逆のルートは考えられます。「肉体的な魅力が強い」ということによって、その女性は、男性から性的な眼差しを向けられたり性交渉をしかけられる機会が多くなりますから、「肉体的な魅力が強い女性」が、その性的な眼差しなどを拒まずに受け入れていった場合は、「肉体的な魅力が強い女性」「性体験の回数」は増えていくことになるでしょう。

セックスのテクニックは独身女性でも獲得するものである

一方で、「性体験の回数」は、確かに、「セックスのテクニック(これは、肉体的な魅力とは別ですね)」を高め、バリエーションを豊かにするものではあるかもしれません。

しかし、「人妻」「性体験の回数」の間になんの因果関係も見出すことができない以上、「『人妻』は独身女性に比べるとセックスのテクニックが優れている」などという意見も通用しません。言うまでもありませんが、「性体験の回数が多い独身女性」のように「セックスのテクニックが優れている独身女性」というのは無数に存在するからです。

「人妻」と呼ばれる存在に、もし独身女性には無いような特権的ともいえる「魅力」と呼べるものが仮にあるとするならば、それは「肉体」に属したものではないでしょう。

とはいえ、その「魅力」なるものは、「性」に属するものではあるかもしれません。しかし、その場合は、「肉体的」なものと直結している「性」(要は「セックスのテクニック」です)ではない「性」ということになるでしょう。

他人の妻であるということが人妻好きの男性を惹きつける

「夫がいる女性」のことをひとたび「人妻」と名付けてしまいさえすれば、「独身女性を通しては決して味わうことができないような人妻特有の『快楽』を与えてくれる」というような「魅力」。性行為の質感や快楽を変容せしめてしまう、「肉体的な魅力」とは関係のない、「人妻の魅力」。それは、一体、何なのか。

それを紐解く鍵は、「人妻」「独身女性」の、最大にして唯一の相違点を手がかりとして見出していく他ないでしょう。そして、それはあまりにも当たり前すぎて思わず拍子抜けしてしまうような答えになるでしょう。

それは、「人妻」「他人の妻である」ということです。「人妻」と呼ばれる女性から、独身女性にはない「魅力」というものを探そうとするなら、箪笥のなかをシッチャカメッチャカに重箱のすみをつつくようにひっくりかえした末に、最終的に、この「他人の妻である」という「魅力」だけが見出されることになるでしょう(もとより、これは、箪笥の最初の段の引き出しをあけた一番上に、チョコンと、もっともわかりやすく置かれていたものなのですが……)。

結婚と同時に獲得され離婚と同時に喪失される魅力

結婚と同時に獲得され離婚と同時に喪失される魅力

この「他人の妻である」という「魅力」は、「結婚」と同時に獲得され、「人妻」「人妻」たらしめ、「離婚」と同時に喪失されるものであり、「結婚」「離婚」とまったく関係のない「肉体的魅力」なるものとは根本的に違う、「人妻」に特有の「魅力」です。

「人妻」という肩書が入るだけで、もし、その性行為の快楽が増幅するとするならば、それは、この「人妻」における唯一の特徴(というより、「人妻」を成立させるための絶対的な条件)である「他人の妻である」という「魅力」によってのみもたらされる快楽の増幅であるといえるでしょう。

しかし、「他人の夫である」からといって、「性行為の快楽が増す」とは、一体どういうことなのでしょうか。なぜ、「他人の夫である」からといって「性行為の快楽が増す」のでしょうか。

それを考えていくためには、「人妻」「他人の妻である」ということが、「人妻好き」の男性にとってどういう意味を持つかを見ていく必要があるでしょう。そして、この地点において、ようやく、冒頭に掲げた《「人妻」と名付けられた存在は、一体、何者なのでしょうか》という問いに戻ることができます。

人妻好き男性にとって人妻とはなんなのか

これは、私が「人妻」をそう捉えているというわけではなく、むしろ、そのような考え方には批判的であり、個人的に受け入れがたいのですが、(私が想像するところの)「人妻好き」の男性にとっての「人妻」というのは、「自分以外の男性に所有された女」です。

「夫がいる女性」のことを「自分以外の男性に所有された女」と考えるためには、まずは、女性という存在を「人間」ではなくて「物」としてとらえる視点が必要です。

女性という存在を「物」として扱うことに長けた男性は、「人妻」に対してではなく、自分の配偶者のことも「自分の所有物」と考える傾向があるといえるでしょう。

結婚前に交際している状態、および交際している女性について、もし、「お前は俺のものだ」というような言い方をする男性がいたならば、その延長線上に「自分の所有物」として配偶者を認識する「夫」がいると考えられます。

それまでは「セックス」などによってのみ支えられており不安定であった「俺のもの」は、「結婚」を通して、「法に支えられて所有権を認められた俺のもの」になっていくというわけです。

物として扱われ物として略奪され物として捨てられる人妻

この「(女性は)俺のもの思考」の人間こそが「他人の妻」を見たときに「あれは自分以外の男性が所有している物だ」と考えることになるのですが、この「女性は物」という考え方と、「他人が持っている物がどうしても欲しくなる」という考え方が結託するとき、そこに、一人の「人妻好き」が誕生します。

卑近な俗語でいうならば、「人妻好き」と呼ばれる男性は、「ジャイアニズム(お前の物は俺の物、俺の物は俺の物主義)」を女性に対しても平気で行う男性であると要約することができるでしょう。

ジャイアニズムを行使できないタイプの「人妻好き」は、自分の中に欲望としてある「ジャイアニズム」を、「他人の所有物である人妻を奪う、他人の男性」を第三者的に眺める(=人妻ポルノ鑑賞)ことで、その内なる「ジャイアニズム」を満たします。

「人妻」との性行為が快楽を増幅させるのは、「略奪」という快楽が性行為に付加されるために起こるものです。

ですから、「略奪」のあとに待っているのは「放棄」になります。「手に入れた」段階で満足してしまう「他人の物」なんて、「自分の物」になった途端にその「所有していなかったときの輝き」が失せてしまい、持っていても仕方ない物に早変わりするのですから、興味を失った以上は「捨てる」しかありません。

人妻とは一人の人間であり一人の女性である

こうして、「人妻」と名付けられる存在は、女性を物として扱う「人妻好き」の男性のジャイアニズムによって、「誰かの所有物」に変えられ、「略奪の対象」となり、セックスが終わったあとは「不用品」として「捨てられ続けている」わけです。

ところが、当然ながら、「人妻」と呼ばれることになる「夫がいる女性」は、そもそも「夫の所有物」ではありません。

夫が「自分の所有物」と考えることも、夫以外の男性が「他人の所有物」と考えるのも、(自分のことを「夫の所有物だ」と考えている「人妻」もいるかもしれませんが)はっきりいって「人妻」からしてみれば「言いがかり」でしかありません。

「人妻」と呼ばれることになるのは、「物」ではなく「一人の女性」であり「一人の人間」です。それが「夫」であろうと「夫以外の男性」であろうと、「人間」「物」扱いして所有するという考え方は、「物」として扱うことになる女性に対する侮辱であると私には考えられます。

ですから、冒頭に自ら設定した《「人妻」と名付けられた存在は、一体、何者なのでしょうか》という問いに対する答えは、「物ではない、一人の人間であり一人の女性だ」という簡潔な一言で終わらせることになるでしょう。